幸せ恐怖症ぱーと①
『潜在意識を活用して全ての願いを叶えよう。』
『潜在意識は全ての願いを叶えている』
この違いに気づいた時、自分の内側から
「怖い、怖い、怖い…!」
という声が聞こえてきたんです。
「おぉ、案の定、私は願いを叶えたくなかったんだな」と、
自分の意思で願いを叶えていないことに改めて気づいた瞬間でした。
何が怖いって、自分が幸せになるのが超怖いんです。
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私は幸せ恐怖症。
それは自覚していた。
(というかあまり認めたくないんですが、ACです。)
でも、いい加減そんな自分の中の「怖い」という声に向き合おうと、
幸せについて思うことを紙に書き出してみました。
すると、こんなところが自分にはあるな、と気づいたんです。
- 目の前に楽しいことがあるのに、全力で楽しむことができない。
- 自分が幸せになるイメージを持つと、ゾッと嫌悪感に襲われる。あるいは、「そんなのある訳ないわ」と否定してしまう。
- 幸せだと、あえて良くないことを想像してしまう。
- 幸せになるのは怠惰でいけないこと、という禁忌感がある。
- 自分は人より劣っているので、幸せになる価値がないと思っている。
これ全部、
『幸せとは定量的なもので、
自分が幸せになる=誰かの幸せを奪う』
という強烈な思い込みからの罪悪感から来てるものだったんですね。
実際、本当に現実こうなってた。
彼が出来た日に、職場の人の家族が亡くなったり、
自分の祖父がなくなったり。
認識はやっぱり現実になるんだなぁ…。
一方で、この罪悪感を掘り下げて見ると、
その罪悪感というのは
実は自分にとっての正義で。
すなわち、罪悪感を感じることを自分の中で
「他人をおもいやることのできる素晴らしいこと」
として自己賞賛の対象にしてたんですね。
(なんつー捻くれた自己愛…)
すなわち、自分が限りある幸福を諦めて不幸をすべて被ることを、
清く正しい
尊く徳がある
人として素晴らしい
ことだと認識してたわけです。
だから自分が幸せになるなんて、
数限りある幸せを自分のために独り占めするなんて、
許せないし
最低だし
怠惰だし気持ちが悪い
と思っていた。
そしてその認識を持っていることで、
自分の素晴らしさを噛み締めていたわけです。
わかりにくいかな:(ヽ'ω‘):
自己犠牲的な考え方ですよね。
そりゃあ、幸せになるの怖いですよね。
だって、幸せになったら崇高な自分が崩れてしまう。
それが自分のアイデンティティ、
自分が自分として存在する価値、許可みたいなものを支えてきたんだから。
人より劣ってる自分、
そんなか弱く愛おしい存在が、
小さな身体で他人の幸福のために
不幸を被ろうとしている。
あぁぁぁぁ!。・゜・(ノД`)・゜・。
なんて健気なんだ!!!!!
自己憐憫てやつ、ですね。
…恥ずかしいなぁ。
長くなってしまったので、今回はこの辺りで。